『一度きりの大泉の話』は漫画家の萩尾望都さんが4月に出版した本のタイトルですその中で竹下景子さんと50年間絶縁している理由が明かされました。
『一度きりの大泉の話』の感想を記します。
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『一度きりの大泉の話』萩尾望都
『一度きりの大泉の話』は今年4月に漫画家の萩尾望都さんが記した本のタイトルです。
その「大泉」というのは、萩尾望都さんが当時住んでいた大泉サロンと呼ばれた建物の部屋の名前です。
萩尾さんは、ここに同じく漫画家の竹宮恵子さんと2年間を同居、その後別居の後、ある出来事があって、絶交したという次第になっています。
竹宮恵子さんとの絶交の理由を記したのが、この本の一番のネックの部分です。
「大泉の話」の執筆と出版の経緯
なぜ、50年経って、この本が執筆されたのか。
その理由は、竹宮恵子さんが、大泉サロン時代の回想を含む自伝的な本『少年の名はジルベール』を昨年出版、そこに萩尾望都さんとの絶交について書いた部分があり、その後、ドラマ化や映画の話も含めさまざまに取り沙汰されることになったそうです。
思い出すのもつらい、そのつらさに耐えられなくなった萩尾さんが、こうして出版をすることでもうそっとしておいて欲しい、という目的で、竹宮恵子さんと絶縁することになった”ある出来事”の理由を記した、それが、今回の大泉の話の発端です。
竹宮恵子『風と木の詩』に驚いたこと
私自身はこれと、その他関連の情報を読んで、 竹宮恵子さんと萩尾望都さんの絶縁の理由よりも驚いたことがありました。
それは、竹宮恵子さんの『風と木の詩』には、竹宮恵子さんだけではない他の”原作者”、ブレーンがいたということです。
それを知ることで『風と木の詩』と、その他の作品とでは、作風が大きく違っていたことに初めて納得がいきました。
私は、世紀末的デカダンスを漂わせる少年愛の世界を描いた『風と木の詩』が大好きだったので、同じような作品を読みたいと思い竹宮恵子さんの他の漫画を当たったのですが、同じような系列の作品には当たらなかったので、いつもそれを残念に思っていました。
今回、竹宮恵子さんとは別の作者がいたことが分かって、長年の疑問が初めて溶けました。
『風と木の詩』ブレーンの増山法恵
その原作者の名前は増山法恵さん。
当時の漫画本そのものには、この方の名前は記されてはいなかった。
というのは、原作者の名前を出すことで作品の評価が落ちるのを恐れた増山さんがそれに反対したという話も読みました。
竹宮の代表作の一つとして名高い『変奏曲』(マガジンハウス)は、クレジットこそされていませんが、増山法恵の原作です。竹宮は是非クレジットさせたいと申し出たのですが、増山さんは、原作付にすると竹宮恵子のイメージが落ちるとして、頑として聞き入れませんでした。彼女は徹底的に陰の功労者であろうとしたのです。―https://edist.isis.ne.jp/dust/manga_takemiya/
そして萩尾望都さんと竹宮恵子さんとの絶縁には、この増山さんの存在が大きく関わっていたのです。
萩尾望都さんの友達つながりで大泉へ
増山さんは、後に大泉サロンとなる建物の向かいの家に住んでいて、元々は萩尾望都さんの友達だったそうです。
そこへ竹宮恵子さんを紹介して、大泉サロンには、萩尾望都さんと竹宮恵子さんが同居するようになり、増山さんはもちろんとして他の漫画家や関係者が出入りするようになり、交流の場となる「サロン」となったのです。
もっと”サロン”というすてきなネーミングとはほど多く、実際は、築30年の建物内の四畳半であったということを、後に竹宮さんが明かしています。
もちろん、漫画家としては駆け出しのころです。とにかくもそれが、彼女たちの”母体”となったのは間違いありません。
萩尾望都と竹宮恵子、絶縁の経緯
二人は同居しながらそれぞれの漫画の執筆を進めました。
竹宮さんの本『少年の名はジルベール』によると、萩尾さんの目を見張るような”才能”に圧倒された竹宮さんが、萩尾さんに嫉妬、同居が続けられなくなり、大泉サロンを出たということなのです。
しかし、これが萩尾さんのいう絶縁の理由ではありません。
竹宮恵子と絶縁なぜ
萩尾さんはその後竹宮さんの住まいを訪ねていたのですが、ある時増山さんと竹宮さんに呼び出され、作品についての”苦情”を言われます。
萩尾さんのいう絶縁の理由というのは、の出来事です。
これについては、萩尾さんは「引用はしないでくれ」との事なので、詳しくは本を読んで頂きたいのですが、二人の作品の類似に関しての竹宮さんの方からの指摘であったということです。
そこまでを読めば、ああ、これは萩尾さんとしては、傷つく出来事であったのだろうなというのは十分に理解できます。
これについてはこの記事の下の方にも、もう少し詳しく記します。
大泉サロンの解体後
資料をあたっていると萩尾さんと絶縁後大泉サロンを出た竹宮さんは、増山さんと同居を始めたというのです。
そしてその増山さんが、『風と木の詩』の制作にも大きく関わっているのは先にお伝えした通りです。
大泉サロン解体の真相
萩尾竹宮両氏の間に上記の出来事があったのはもちろんで、『大泉の話』ではその部分は多く萩尾望都さんの心の傷として描かれています。
その点に同情するべき点があるのは勿論です。
しかし、上記のような萩尾さんを傷つける”事件”のあとで竹宮さんと増山さんが同居したということ、その後の作品のヒットを考えると、この話にはもっとビジネス的な側面があったのではないかと思います。
先に結論を言うと、『萩尾望都と竹宮恵子』の中の、増山さんの言葉、
あるとき、竹宮さんから、「大泉サロン」を解体したのは、あなた(注:増山)を萩尾さんに取られたくなかったから」と打ち明けられた
という言葉がすべてを物語っていると思うのです。
この「とられるとられない」はそれこそ同性愛的な感情ではない、それとはまったく違う意味のことです。
2人とも、目的は友情ではなく、増山さんは「少女漫画の革新」による、自らの理想の体現。おそらくかなりマニアックな方ではなかったでしょうか。
そして、竹宮さんの側の目的は、もちろん、漫画家としての自立と大成です。
萩尾望都の友人から竹宮恵子のビジネス上のパートナー
ここから、私の推測と感想を述べます。
増山さんという人はもともと漫画家ではなくて、専門は音楽科で漫画愛好家のような人だったようです。
ご自分は漫画を書く方ではないのですが、
「少女マンガを変えようよ。そして、少女マンガで革命を起こそうよ。」
と大泉サロンで語っていたプロデューサーのような立ち位置にありました。
そして、漫画を書かない増山さんが、自分の構想を具体化するための相手として選んだのが竹宮さんだった。
なぜ、増山さんがその後竹宮さんと同居したのかというと、漫画の構想や内容を決めるのに、常時増山さんが必要だったということではないでしょうか。
離れて住んでいてはマンガが進まない。増山さんはそのくらい竹宮さんの作品執筆において欠かせない人、竹宮さんのいう”ブレーン”であったのではないかと思います。
少年愛でジャンルがかぶる
その時の二人の作品のコンセプトが少年を主人公にしたマンガであったのです。
竹宮の親友で大泉サロンの主催者増山法恵(当時は「のりえ」)の影響は大きく、増山は少年愛(クナーベン・リーベと呼んでいたという)を竹宮と萩尾に教え、優れた少年愛作品、自分が読みたい作品を書いてもらうために、ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』『デミアン』、稲垣足穂『少年愛の美学』などを紹介した。竹宮は『少年愛の美学』を夢中で読んでいたという―出典:wikipedia『風と木の詩』より
萩尾さんは、増山さんの教唆にも関わらず、「私は少年愛がわからない」と大泉の本の中で書いています。
そして、上の記述だと竹宮さんは『少年愛の美学』に同調できた、そのことが作品につながっていったのです。
少女マンガの”少年愛”の革新性
少年愛、今で言うボーイズラブは現在は漫画の1ジャンルとなっていますが、当時としては誰もが扱わなかったものです。
それが、増山さんにとって「革新的なもの」だったのは間違いないことでしょう。
類似を思わせる”最先端”ともいえるテーマで、萩尾さんが少年を主人公にした漫画を書いているとすれば、それをやめさせたい気持ちが起こるのは当然だったと思います。
これについては、萩尾さん自身も本書で推測を述べている部分がありますね。(引用不可ということなのであえて書きません)
萩尾と竹宮の両氏が同居、増山さんがそこに通って、2人に同時に話をしていれば、コンセプトが似通ってきてしまうようなことは起こっても不思議ではありません。1人を排斥しようというのも当然の心情です。
それによって萩尾望都さんは心に傷を負ってしまったために、「竹宮恵子さんが悪い」という意見もあるそうなのですが、上記のような事情であれば、仕方がない面があります。
A と B は友人であったが、ビジネスパートナーとしてBとCが最も適任である相手を選んだ上で一緒に仕事をするということであれば、一番大切なものはパートナーであり作品です。
端的に言うと、後にプロデューサーになった増山さんが1人、他の2人が作家であれば、誰と誰が組むかということで元々友人であった萩尾さんがはじき出されたということなのではないか。
創作をする人は作品至上主義になって当然であり、食えるか食えないかのきびしい少女漫画の世界で友達関係の方を大切にして仕事を諦めようなどという人は少ない、というより、これはもう全く別次元の話になりそうです。
嫉妬を感じていた萩尾さんの友達が増山さんであり、萩尾さんをインスパイアしていたのが増山さんならば、自分も同じようにサポートしてもらいたいとして、一種の”ヘッドハンティング”をしたとしてもどこか当然のように思えます。
「少年愛」を理解できない萩尾さんを外して、やおいの元祖のような増山さんの理想と竹宮さんの職業的大望が一致したのです。
アイディアを共有
そして、竹宮さんの方は「萩尾さんに盗作を糾弾した」というようには本では書いていないのですが、おそらくその意識は少なかったのかもしれません。
なぜって、竹宮さんの作品の発案に増山さんが関わっていたとすれば、それは合意の上でのアイディアの貸借です。
盗作とは全く違いますが全部自分のオリジナルであるとは言えない。
要は、作品が似ていても、増山さんのアイディアであることは三者とも承知ですので、「私の作品の盗作」と言えるようなものではないのです。
同居をして同じサロンで一緒に顔を合わせていた以上、増山さんの考えの波及は竹宮萩尾両氏に同時にあったと考えるのが自然でしょう。似てきてしまっても仕方ありません。
あとは、そのアイディアをどう具現化するかということだけです。
そして、作家が心血を注いだ自分の作品を守るのもこれも致し方ないでしょう。
革新性のあるテーマは一種の「特許」と同じだからです。
終りに
最初に書いた通り『風と木の詩』の制作に増山さんが予想以上に大きく関わっていたということは、今初めてわかって少々驚いていますが、それだからといって、既に出来上がって完成されている作品の評価が左右されるわけではありません。
むしろ、それによってはじめて三者の関係と心情が理解できました。
二人はそうして交友こそ途絶えたものの、むしろ絶縁することでそれぞれの世界を守ることができたと思います。
『一度きりの大泉の話』そして、『少年の名はジルベール』はどちらも50年を経て、人生を振り返った時に、自分の構築したものの価値が確信できる年齢となったからこその回顧録なのだと思います。
頭から重い、暗い話と先入観で思わずに読まれるのが望ましいでしょう。