自分のステップファミリーとしての生活を書いていて、うちは夫と同居をはじめたとき既に、子どもが成人していましたが、子どもが小さい場合はもっとたいへんだろうなと常々思います。
いちばんの悩みはやはり、連れ子がなつかないということかもしれません。
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人と人が親しくなるには時間がかかる
私もそう、今思い返してみると、息子と本当に仲良くなるまでには何年もかかったのだろうなと思います。
小さい子どもであっても、親と子というより、やはり人と人、知らない人がいきなり「お母さん」になるわけはありません。
本当に相手がどんな人かがわかって、親しくなるのには本来時間がかかるものだと考えましょう。
継母の居る家に同居したいと言ってきた息子
息子がある日実家に住みたいと言っていると夫から聞いた時は、びっくりしました。
もしかしたら息子より、私の方が息子に「なついて」いなかったのかもしれないとふと思いましたのです。
私自身母親が3度結婚していて、義理の親はもちろん義兄弟との同居、、実の父母と弟との離散と断絶、前夫とのDV離婚など人から見れば大変な生活をしてきたからでした。
たぶん、人から見れば人間関係に及び腰で、冷めたところがあったのかもしれない。今は自分でもそう思います。
両親が揃った家という僥倖
離婚家庭においては、学童期になった子どもは、両親のどちらかが欠けていることを痛みとして心に感じています。
よその家と比べて自分に両親が揃っていないことを、理由はわからないながら、さびしく思っていることも多いのです。
テレビのマンガを見ても主人公にお父さんお母さんが居るのに自分には居ないことを思い出すようなこともあります。
なので、両親が揃ったこと、それ自体は、それはうれしいのです。
新しいお母さんが来て喜ばない子どもが居るとしたら、それは、お母さん自身に問題があるというより、その子が欠損家庭という環境に慣れ過ぎているということでもあります。
再婚家庭が子どもにもたらす再構築の機会
そして、争っている両親を見ていた子供ほど、新しい両親が楽しそうにしていることも、長期的にたいへんプラスになります。
何しろいがみ合っている夫婦しか見ていないと、夫婦とはそういうものかと思っていることも少なくありません。
再婚は子どもにとって、たとえそれが子ども自身に気がつかなかったとしても、社会的にも心理的にもたいへんなメリットです。
職場の人間関係などと違って、人の家庭はめったに覗けないので、家庭内の関係のモデル形成は、あとからの獲得が難しいのです。
その上、本に記述された夫婦関係は、目で見て体感するものには勝りません。
人は誰も一度も見たこともないものを、心に浮かべることはできないのです。
なので、両親の再婚は、子どもにとっては関係のモデル形成にたいへん良い機会になります。
私は息子と暮らして、それがいちばん息子にとって良かったことだと思っています。
二重の別離と断絶を経験していた息子
息子自身は、母親の方に引き取られましたが、うまくいかず、ある日母親に平手打ちをされたということで、中学生の時に父親である夫の方に戻ってきたのだと聞いています。
夫の夫婦関係にもたいへんなところがあったようで、私は息子の前で、べたべたはしないまでも夫にもやさしい態度を取るようにしていました。
夫婦なら、お互いいたわりあって過ごすことができるということを示すためにです。
息子は夫婦の不和と離婚、それから、単に両親の離婚という以上に、親子の離別と断絶という、二重の別離を経験していたことになります。
「いい夫婦」の日に温泉の割引券をくれた息子
あるとき息子は私に温泉の割引券をくれて言いました。
「11月22日はいい夫婦の日だから、お父さんと一緒に温泉に行ってきたらいいよ」
それは、争いの果てに離別してしまった自分の父母にはけっして言えない言葉であったと思います。
「一組の夫婦」として息子が思い浮かべているのは、離別した両親ではなく、再婚した私たちに変わったのです。
両親の再婚は大切な連れ子の心の修復の機会
両親の離別より7年後、息子は私たちの再婚に心を修復する機会を得たのだったと思います。
一緒に暮らした息子が、家族というのは仲良く暮らすこともできる、そして私たちの暮らしぶりを見て、夫婦とはいいものなのだな、と思ってくれればこれに越したことはありません。
それは息子が私個人になつくなつかない、あるいは仲良くできて良かったなどということよりも、もっとだいじなことだったと思っています。
仲良しの歌を口ずさむ息子―-そして「みんな」が幸せに
息子はよくお風呂上りに「みんな、仲良し、いいな、いいな」という歌を歌っていました。
それを聞いて、私自身があるとき息子以上に嬉しい気分でいることに気が付きました。
それは夫も同じだったと思います。
息子も、そしてそれ以上に私自身がこの年齢になって、血のつながらない家族と家族らしい、家族としての生活を体験できるとは、息子と同居した時は予想もできないことだったのです。