こんにちは。なな子です。
私と同じステップマザーの皆さんは、連れ子のお子さんとなかなか仲良くなれないと心配してはいませんか。
そう思える時でも、できること、既にできていることもたくさんあります。
子どもと一緒に暮らしていること自体もそうですし、毎日の食事を共有していることだってそうです。
焦らずとも、今はそれでも十分かもしれません。
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最初に会った時は何も話さなかった息子
息子との場合を振り返ると、一番最初に会ったときは、息子はとても緊張してしまい、何も話しませんでした。
大学生の時は、息子は年に何度か帰省をするだけでしたので、なかなか親しい感じにはなれなかったのだと思います。
何しろ中学生の時にお母さんとは別れてしまい、年上の私のような年代の人とも話す経験はそれほどなかったでしょう。
なので、無理に話をさせるようなことも避けました。静かに一緒に居るだけで、最初はその方がよかったようです。
そして、直接ではないにしても、とにかく息子のためにできそうなことを間接的にしてあげることにしました。
そうしたら、ある日夫の母から、息子が
「お家がとてもきれいになったんだよ。お菓子も作ってくれたよ」
と言っていたと聞かされました。姑はそれをとても喜んでいました。
子どもは、自分からお礼を言ったり評価を述べたりはしません。けれども、目に入ったことや変化は気が付いてくれているのだなとうれしくなったものです。
たとえ、自分からは話さなくても、感じていることもあるのです。
そして息子の場合は、自分から同居したいということになったのでした。
環境としての母親
猫のお母さん
上で息子が気が付いて述べていることは、「家がきれい」と「食べ物」のことです。
新しいお母さんの人そのものについてではないですね。
それで思い出しましたが、心理学に「環境としての母親」という言葉があります。
たとえて言うなら、動物のお母さんは皆それに似ていると思います。
母猫が傍にいる時は、小猫は温かく過ごせます。いつもお母さんのおなかにくっついていられるからです。
そして、いつでもおいしいミルクが飲めて、お母さんが居る限り、おなかが空くこともありません。
人間の赤ちゃんがベッドに寝かせられて布団が温かいとか、哺乳瓶が出てくるとかよりも、もっと近い直接的な接触です。
ただし、小猫はそれを、母猫の体温であって、母猫の乳だというようには認識していないのです。
何となくそれらが全部セットになっていて、母猫と関連がある。
とにかく母猫が居ればお腹は減らないし、快適で気分がいい。
私の最初に目指したのは、「母」ではなくて、その母猫になることでした。
成人した男の子に、そもそも私を母と思えというのも無理なこと。
当初は私が「母」ではなく、環境が「母親的」であれば十分だと思ったからです。
子どもの好きな料理を作る
息子は肉なら好き嫌いなく食べられるというので、焼き肉やすき焼きなど、そういうメニューを作って、たいていホットプレートで食べました。
ホットプレートだと、皆で視線を同じにしたり、共同で作業したりできます。
母親と離れて育った子供は偏食が多く、息子もそうでしたが、あえて嫌いなものは食べさせませんでした。
おいしい、快いものだけが与えられる―――
それは食べ物のみならず、「母親」の居る生活の全般の印象にかかわってくるからです。
拒絶のイメージを避ける
そして、息子がたとえば遊びに行っていつ帰ってこようとも、あるいは、朝寝坊をしてひとりだけの朝食になっても、それから夜の10時に何か食べたくなったとしても、とにかく支度をしてあげることに決めていました。
これもやはり食べ物云々というよりは、一緒の生活の中に否定や拒絶のイメージを持ち込まない、暖かくて美味しい「母親的なイメージ」の保持のためでした。
自分で料理をするようになった息子
一緒に暮らし始めた頃は、会社に行って「今日は朝何を食べたのだったか思い出そうとしたが、忘れてしまった」と言ったことがありました。
食事が楽しみな様子でした。帰ってくると「今日はご飯は何」と聞くこともありました。
母親の居ない家庭に育って、そういうささやかな楽しみもなかったのだと思うと、胸が痛むこともありました。
今は一人暮らしになって、自分で料理をしていると聞いた時は驚きました。
私が作っている様子を見て、手料理がおいしいこともわかり、自分でもできそうだと思ったらしいのです。
一緒に暮らしたことが、料理スキルに結びついたとしたら、それは、本人のためにもとても良かったことだと思います。
十分なケアが子どもの自尊心を芽生えさせる
それ以上に、私が息子に「おいしいもの」を与え続けたことで、息子は自分が「おいしいもの」を欲していることに気がついたのだと思います。
そして私が息子に与えたように、息子は自分で自分に「おいしいもの」を与えることができるようになったのだと思います。
十分にケアをしてもらった子どもは、自分の喜ぶことを見いだせるようになります。
自尊心というのは、ある日急に生まれるわけではありません。
親がその子を大切に扱うと、子どもはそれを真似て初めて、自分で自分を大事にすることを覚えるのです。
子どもにとっては変えない方がよいことも
なるべくそれまで父親と二人で居た時のように、変わりなく過ごしてもらうためです。
子どもにとっての環境という点では、そういう一見マイナスに思える行為も必要だったと思います。
居間のインテリアなども、子どもによって馴染みのあるものがどれかわからないうちは、置いてあるものはなるべくそのままにして、最近まで大きく変えることはありませんでした。
今でも玄関の靴箱の上には、息子が子どもの頃に集めたスターウォーズのキャップのコレクションが動かさずにおいてあります。
家に帰って来た時に、子どもの頃に見た物が見えると、懐かしく思えるだろうと思うのです。
ステップマザー特有の疎外感も時と共に薄れていった
しかし、子どもを含めて、実際に様々なことが共有しながら暮らしが進んでいくうち、いつの間にか、そういう風には感じなくなりました。
「夫と息子」というユニットだけではなく、「夫と私と息子」または「私と息子」というユニットが、生活のいろいろなシーンで加わったからだと思います。
単に経験が少ないのだと気がつく
最初は何でも「連れ子だから」と思いがちですが、あくまで生活の中でのことですから、単に実務上の問題に還元できる事柄も多いものです。
そもそもが、私の場合は子どもを持ったことがなかったので、何をするにしても経験がなかったと思います。
息子が何が好みなのか、何が必要かも知らなかったので、パジャマ一つを選ぶのでも、最初は何かと心配になりました。
それらは慣れていくにしたがって、物事が苦にならなくなりました。
いつからそうなったとか、何がきっかけで、というのではない、いつの間にかそうなって、楽に生活できるようになっていった気がします。
それ以上に、生活を共にする上で、息子が私を受け容れてくれていると思えることが多くなりました。
言い換えれば、息子の希望で一緒に暮らし始めてからというもの、息子はとても楽しそうに、満足そうに見えたのです。
その様子を見ているだけで何となく、私自身が自然に「お母さん」に近づけた気がするのです。
配偶者の子どもとも生活をする間に、自然にいろいろな接点が生まれてきます。
そうしているうちに、気持ちが寄り添うようにもなっていきます。
最初は距離があっても、焦らずにそばに居て、見守ってみてください。
そして、皆さまがお幸せになられますように。